2016年御翼8月号その2

                                          

日本で最初の西洋式病院を設立したユダヤ人・アルメイダ

  

  天国に行った人類が、再び神に背を向け、第二の失楽園が起こることはないのだろうか、とふと思った。しかし、私たちが復活後に入れていただく天国は、エデンの園のように人が自分の力で永遠の命を守ろうとする世界ではない。既に永遠の命を一度失った者たちが、キリストの十字架によって赦され、神の愛によって義の衣を着せられた者たちが集まるのが天国である。中身は汚れたままでも、神の子であるキリストの衣を着ているので、完全なものとして天国に入れていただける。そこは、人間が自分の力によって神の前で完全であり続ける必要のない世界である。
 そして、有難いことに、天国に入れていただいた時点で、私たちには救われた魂に相応しい、新しい霊の体が与えられる。そこには古い肉体から来る欲望はない。そのときには、一個人でありながらも、罪を犯さない完全な存在となっている。あらゆる罪は肉体から来るからである。
 「霊の体」がどんなものであるか、今のわたしたちには理解不能である。天国では、自由意志をもった一個人が、罪をまったく犯さない存在となり得るのも、どういうことなのか、今は分からない。なぜ、神は最初から人間をそのような、罪を犯さない存在としえなかったのかも分からない。それは、もともと神は人を愛の対象として創られたからであるが、それがプランA(エデンの園)では実現できなかったので、プランB(救い主による再創造)によって全知全能なる神が実現してくださる、と理解しよう。霊の体について、父が以下のようにまとめている。

霊の体は年と共に純度を高める  佐藤陽二『魂の神学』より

  魂が、心と体とを去ることが死と言われている(創世記35章18)。そして復活とは、その魂が、「神からいただく建物」(コリント第二 五章一)、すなわち「霊のからだ」(コリント第一 15章44)を与えられて生きることである。この霊の体は、死後ただちに与えられる(コリント第二 5章1)。一方、「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」(コリント第一 15章51)とある。この霊の体は、神とキリストとによる最後の審判のあとの、神の国の完成の時に与えられる、さらに高度な霊の体である。このことによって私たちは、次のことを知る。人間の肉の体は、年と共に滅びに向かって進んでいる。しかし霊の体は、年と共に純度を高め、完成へ向かって進んでいるということである。イエス・キリストのよみがえりを記念するイースター(復活節)は、この意味において死は終りでないことを私たちに教えてくれる。死者の魂は、死後すぐに霊の体を着て、主イエスによって備えられた場所へ移される(ヨハネ14章2、3)。そして霊の体の完成へ向かって働き続けるのである。また、先に天へ召された者との再会の希望をイースターは与えてくれる(マタイ12章50)。

 日本で最初の西洋式病院は、1557年にユダヤ系ポルトガル人宣教師で、医師でもあったルイス・デ・アルメイダが大分県の府内に建てた。アルメイダはイエズス会の宣教師で、ザビエルの活動を継承していた。今でもアルメイダ病院として続いており、当初はハンセン病棟、内科・外科病棟で始まり、日本最初の医学校も併設されていた。病院では、日本で最初の外科手術が盛んに行われたが、この外科手術を執刀したのはアルメイダ宣教師だった。日本で、人体に初めてメスを入れたのはアルメイダということになる。一五四六年に外科医師の資格を得ていたアルメイダは、1555年、修道士の道を歩むことになった時、医師としての才能と商人として得た富のすべてを、人々の救いのために捧げたのだった。
 戦国時代の当時、人身売買の犠牲になった日本人女性たちが、ポルトガル商人の手で、遠くヨーロッパにまで売られていた。アルメイダは、かつてポルトガル商人であり、貿易船の船長として巨万の富を得ていた。そこから、アルメイダも奴隷商人だったのではないか、という疑惑も歴史家の中から生まれた。彼は、その奴隷商人としての罪を悔い改め、イエズス会の修道士になったと推測する人もいる。しかし、それを証明する資料はない。
 ここで思い出されるのは、十八世紀のイギリスで奴隷船の船長をしていたジョン・ニュートンの回心の物語である。ある時、奴隷達が大反乱を起こした。ニュートンはデッキに上がっていた黒人奴隷たちを全員銃で撃ち殺させた。その頃のことを、ニュートンは手記にこう記している。「大酒飲みや女遊びなど、私に比べればまだかわいいものである。あの頃の私は、良心の呵責すら感じずにいた」と。そんな彼も、後には、奴隷たちを人間らしく扱う船長へと次第に変えられて行った。嵐に遭い生死の淵をさまよった時、彼は神に助けを祈る。その出来事がきっかけで彼は回心し、すべてを神に捧げて牧師となり、世界的に歌われている賛美歌「アメージング・グレイス」の歌詞を書いたのだった。罪人である自分が神の驚くべき恵みにより救われたという喜びを歌詞にしたものである。果たして、アルメイダもそのような驚くべき恵みを体験して愛の人となったのかは謎のままである。しかし、一つ言えることは、どんな罪であっても、人がその罪を神の前に心から悔い改め、神の救いを信じる時、そこに愛と赦しの人生が待っているという事実である。 守部喜雅『ザビエルと天皇』(フォレストブックス)より

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